転がる、たゆたう
柴田さんは水道の前に立ち、おもむろに蛇口をひねります。こうなってしまうともう大変、しばらくその場から動こうとしません。さらさらと流れる水に指先や手のひらを浸し、ぼーっとしているような、とても気持ちが良さそうな、なんとも言えない恍惚とした表情を浮かべています。まるで、水の感覚を頼りに何かを思い出そうとしているような。今、何を想っているのでしょう。
わからないのです。彼の描く『せっけんのせ』が、なんなのかも。
「海外のアートフェアでも注目され、ニューヨークやパリで作品が飾られるようなすごい人なんです。でも見ての通り穏やかでマイペースな性格で、『工房集』の人気者なんですよ」。にこやかに話す担当スタッフ・崔さんの隣で、大きなキャンバスに黙々と円を描いていく柴田さん。これは一体何を描いているの?
『せっけんのせ』
決まって彼はそう答えます。この色とりどりの円一つひとつが、せっけん?それともその泡?それらの色彩や配置は驚くほど秀逸なもの。無秩序なようでいて、計算し尽くされたかのように絶妙なバランスでキャンバスを埋め尽くしています。ずっと見つめていると、彼の記憶の奥の奥にあるぼんやりとした情景を眺めているような気持ちになる。…考えすぎでしょうか。聞けば、キャンバスにコロコロとボールペンの先を転がす感覚が気持ちいいのだとか。そう言われてみると、なんだか安心したような顔つきに見える気がする。時折おまじないのように何かを呟いては、またコロコロと指先に伝わる微細な振動を確かめているようです。
「また行く、また行く」
突然目を見開いて大きな声を出す柴田さん。それでもスタッフさんたちは落ち着いたものです。こんなふうに、大好きなご両親の住む家が恋しくなってしまうことがしばしばあるのだとか。お父さんお母さんをはじめ、周囲の人たちからもたくさんの愛情を受けて育ったという彼の頭の中には、それと同じ分だけたくさんの思い出があるのでしょう。
「また行きましょうね」。崔さんがそっとボールペンを渡すと、またゆっくりと円を描き始め、安堵したような表情を浮かべます。水と遊んでいたあの時と、おんなじ顔。
コロコロ、コロコロ。その刹那ごとに様相を変える表情を見ていると、不思議と柴田さんの記憶の中を一緒にたゆたっているような気持ちになるのはどうしてでしょう。
やっぱり考えすぎなのでしょうね。彼の頭の中は、彼にしかわからないのですから。