世界は僕等の手の中
ここ『やまなみ工房』のある滋賀県甲賀市甲南町は緑豊かなのどかな場所で、周辺には青々とした田園風景が広がり、所々なだらかに隆起した小丘の見える美しい田舎町です。
彼はオレンジ色のオーバーオールに青い帽子を被り、何かのセリフのような言葉を唐突に発しては、握った拳を小さく振り上げたり笑ったりしています。
楽しそうかそうでないかといえば、とても楽しそう。
この日取材に伺った鵜飼結一朗さんは、昨年11月にニューヨークのギャラリー『Venus Over
Manhattan(ビーナス・オーバー・マンハッタン)』で個展を開くほど、アール・ブリュット業界で知らぬ人はいないアーティストのひとりです。
その凄まじい作品はぜひ直にご覧いただきたいのですが、特筆すべきはその制作過程。畳半畳ぐらいある大きなボール紙に向かい、下描きを一切せずに彼の世界を描きあげていく。
昆虫や妖怪、恐竜、アニメのキャラクターなど、古今東西様々な登場人物が次々と紙面に現れ、ぞろぞろと楽しそうに入り混じりながら、群れを成してどこかへ歩いていきます。
その一つひとつは、今まで彼が愛読してきた図鑑や画集、また、幼い頃に見たアニメやゲームなどで目にしたもの。
250色ものマジックペンを繊細に使い分け、迷いなく、思いつくままに筆を進めていくのです。
一方で、公共施設のトイレを几帳面に掃除しているのも、同じ鵜飼さん。水道から床まで隅々まで一心不乱に磨き上げていく様子は、まさに作品制作さながらの集中力です。「1日1回これをやらんと怒っちゃうこともあるぐらい、結一朗君にとっては欠かせないルーティーンなんですわ」と、担当支援員の棡葉昌大さんは、彼を見つめながら、優しい笑みを浮かべます。そこでも彼は時折宙を見つめ、何か楽しいアイデアを捕まえたように拳を掴むと、さっきと同じようにご機嫌な声を響かせます。
「ここに通っている人たちは、皆それぞれの世界の幸せを持っているんです。それ以上を無闇に求めることもなく、他者を妬んで争いを起こすこともない。」施設長の山下完和さんはそう言います。確かに、鵜飼さんをはじめとする『やまなみ工房』の皆さんを見ていると、好きなことに正直で、自分の楽しみや幸せをしっかり掴んでいる。対して自分はどうなんだろう、と。心から尊敬の念が湧いてくるのを感じました。
「結一朗君の作品を見ていると、描かれているもの全てが楽しそうなんです。ほんまのところはわからないですけど、どんな人たちでも共存していけるって、そんなメッセージがあるんじゃないかと僕は思ってるんです。」
鵜飼さんにお別れの挨拶をすると、言葉こそありませんが、少しだけ微笑みかけてくれたような気がしました。そして、わずかにそう思った最中にはもう、彼は向こうへ振り返り、大好きな自分の世界へと帰っていきました。